近江神宮昭和祭に参加して

近江神宮楼門

平成30年4月29日、午前11時より、滋賀県大津市の近江神宮で催された昭和祭に参加する機会に恵まれました。近江神宮では、以前から祭典行事の一つとして、昭和天皇の誕生日をお祝ひする昭和祭が齋行されてゐましたが、一般の参列者を交へての御祭は三年ほど前から始められたものださうです。

平成29年は、御祭神である天智天皇が近江大津宮に遷都されて以来、1350年、さらに本年は御即位1350年といふ節目の年にあたります。ここ数年は大津市民にとつても、湖都繁栄の礎を築かれた時代を振り返る大きな契機となつた様です。

当日は、まさに昭和の御代から「天皇晴れ」と呼ばれた先帝陛下の御誕生日に相応しい晴天に恵まれ、近江神宮の象徴ともいふべき朱塗りの楼門も初夏の陽射しを浴び、一層鮮やかに照り映えてゐました。

第一部の祭事は御本殿で厳かに齋行され、御祭文では天智天皇と昭和天皇の御事蹟を振り返られる一文もありました。その後、佐藤久忠宮司より、白村江敗戦、大東亜戦争敗戦といふ国家存亡の危機にあつて、お二方の天皇が如何に戦後復興のために御苦心あそばされたか、その平和建設への並々ならぬ御努力を偲ぶ御講話がありました。

第二部では「伝えるべき日本人のこころ」といふテーマで、お二人の講師による講演会が行はれました。

楠公研究会の山下弘枝会長からは、「大楠公が遺した日本精神」と題し、楠木正成公の七生報国の精神の系譜について、特に山鹿素行の『中朝事実』に着目され、その武士道精神が、明治天皇、昭和天皇の御信頼が篤かつた乃木希典、阿南惟幾といつた軍人たちに脈々と受け継がれていく過程をお話しされました。

妙見宗河楠協会の小西正純住職からは、近江神宮での大東亜戦争終結七十年奉告祭に始まり、パラオ渡海での精進潔斎、ペリリュー島での合同祭事での表白文を紹介されました。その際、白村江での敗戦と百済滅亡が、大東亜戦争を凌ぐ国難であつたことを偲ばれ、先帝陛下がその故事に学ばれて、国民とともに復興にあたられた事実についても言及されました。

近江神宮は昭和15年、紀元2600年の一大事業として、先帝陛下の叡慮を奉じ、大津宮に都を定められた天智天皇を御祭神として創建されました。5年後の昭和20年には、大化改新1300年祭も齋行されるわけですが、図らずもこの年、日本は大東亜戦争敗北といふ事態に見舞はれてしまひます。

翌年の11月9日、元滋賀県知事で侍従次長を務めた稲田周一が、天皇御代参により近江神宮に参拝した際、時の平田貫一宮司に対し、白村江大敗で諸政一新、文化振興、国力充実を図られた天智天皇の御事蹟をお踏まへの上、天皇が国民と一丸となつて復興に当たられる御決意を固められたことを奉告されたと伝へられます。

その辺りについては、昨年筆者も展転社から上梓した『敗戦復興の千年史』でも言及致しましたが、著者自身にとつてもこの度の昭和祭は、漸く御祭神に出版の御報告をお伝へできる感慨深い機会となつた次第です。

因みに今回の催しを企画され、講演会でも司会進行に当たられた安田洋二さんによると、11月9日は昭和天皇の近江神宮御代参のほか、昭和16年には陸海軍の合同軍事演習を前に大元帥でもあられた昭和天皇を中心に記念撮影が行はれ、また天智天皇が近江遷都より一年後、崇福寺に弥勒菩薩を奉納される…といふ様に、近江神宮にとつて特別な日にあたるのださうです。

近江神宮は、現在、競技かるたに熱中する高校生の青春を描いたアニメ作品「ちはやふる」が実写映画化されたこともあり、作品の舞台として若い世代の関心も集め、ここ数年はさらに賑はひを見せてゐるやうです。改めて申すまでもなく、天智天皇は「秋の田の刈穂の庵の苫をあらみ我が衣手は露に濡れつつ」の百人一首巻頭歌でも知られ、〝競技かるたの神様〟としても親しまれてきました。

また、本邦で初めて漏刻といふ大陸様式の時計を飛鳥京に設置したことからも、〝時の神様〟としてもお祀りされ、毎年6月10日の時の記念日には、往時を偲ぶ〝漏刻祭〟が、国内の時計会社の参列も交へて齋行されてをります。

嘗て対外戦争の敗北を経てこの地に遷都されたことが、現在の大津市繁栄の礎につながつたことを念頭に置けば、現在の賑はひは隔絶の感があるかもしれません。しかしながら、この度の近江遷都1350年を機縁に、昭和の日が、未曾有の国難を乗り越えられた天智天皇を御手本に、国民とともに戦後日本を繁栄へと導かれた昭和天皇の御事蹟について、より多くの方々に振り返られる日となることを願つてやみません。

(東洋大学非常勤講師・山本直人)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です