海ゆかば」の昭和
新保祐司

 ただいま御紹介いただきました新保でございます。

 今日は昭和の日を祝ふ会といふ集ひに御招待いただきまして、大変光栄なことだと思つてをります。私としましては昭和のことで喋れることとなりますと、「海ゆかば」といふ曲について、いろいろと考へて本も書いたりしてをりますので、このことについてお話をさせていただくのが宜しいのではないかと思ひ、今日は「『海ゆかば』の昭和」といふタイトルでお話しさせていただきたいと思ひます。

 いまお聞きいただいたのが「海ゆかばのすべて」といふCDに入つてをりますが、「海ゆかば」を弦楽四重奏版に編曲したものです。歌詞がなく、聞くとまた一段と深々とした感銘のある曲として聞こえてくるといふふうに思ひます。

 「海ゆかば」につきましては、今日この会場にをられる方々は殆んど御存知でせうが、日本全体で言ひますと、一般的に「海ゆかば」を知つてゐる人といふのはなかなか少ないはうでありまして、その作曲家の信時潔といふ人についても知らない人が多いといふのが現状だと思ひます。今日、この会場にをられる方は信時潔については御存知ない方もをられるかもしれませんが、殆どもう「海ゆかば」については御存知のことと思ひますので、その辺を前提にしてお話ししたいと思ひます。

 「海ゆかば」といふ曲は、昭和といふことを考へる日において、最も昭和を象徴する曲であらうといふふうに思ひます。日本の近代において象徴的な曲として私が考へますのは、明治においては「荒城の月」、昭和において「海ゆかば」であらうといふふうに思つてをります。荒城の月といふのは御存知、滝廉太郎が土井晩翠の詩に作曲したものでありまして、これはやはり侍の終焉といふ幕末から明治にかけての日本の悲劇、日本の歴史の悲劇といふものを深々とうたひあげたもので、これはもう名曲中の名曲だらうといふふうに思ひます。それと昭和を深々とうたつてゐるものとしては、この信時潔の海ゆかばにトドメを刺すと、いふふうに私は思ひます。私は『信時潔』(構想社)といふ本を書きましたけれども、平成十七年の五月に出ましたのでちやうど丸四年経ちまして、ある意味では非常に幸福なことに状況が変はつてをります。四年前に『信時潔』を出したときは平成十七年、所謂二千五年ですので、戦後六十年、信時潔没後四十年といふことを記念して出したのですが、そのときは信時潔についてはそれほど知られてゐなかつたと思ひます。さういふこともありまして、私は信時潔といふ偉大な作曲家を復権させようといふ思ひがありまして本を出したのですが、幸ひにしてこの四年間でだいぶ信時についての知識が、あるいはコンサートなどだいぶ開かれるやうになりまして、私としても大変嬉しく思つてをります。特に大きいことは、SPレコードで信時潔の曲が一杯入つてをりましたけれども、昨年十一月にそれがCDに復刻されまして、『SP音源復刻盤 信時潔作品集成』といふのがCD六枚組で、一万五千円もするものでありますけれども、立派なボックス入りのものが出ました。それが昨年の十二月に文化庁の芸術祭大賞でレコード部門で大賞を受賞いたしました。恐らく十年前頃であればかういふことはあり得なかつたことだと思ひますけれども、多方面から信時潔といふ人の芸術についての評価が普通にされるやうになつてきたといふことは言へると思ひます。これまでは「海ゆかば」といふ曲の作曲家といふ印象が非常に強く、またこれが大変な名曲でありましたので戦後民主主義のなかにおいては、信時潔はやや不遇な立場に置かれてゐたわけです。滝廉太郎の世代を第一世代といたしますと、そのあとに出てきましたのが山田耕筰と信時潔といふ二大作曲家でありまして、ほぼこの二人は同世代で、山田耕筰のはうが一年年上で明治十九年生れ、信時潔は明治二十年生れです。亡くなつたのは奇しくも同じ昭和四十年といふ非常に宿命的な、ある意味では大変ライバルでもありましたので非常に宿命的な二人だつたのですけれども、戦前においては信時潔といふのは東京音楽学校の教授でありまして、山田耕筰といふのは在野の方でありましたので、戦前的なイメージでは信時潔が圧倒的に上だつたのですけれども、戦後民主主義的な風土においては「赤とんぼ」とか「この道」とか、さういふ童謡みたいなものをつくつてゐるはうがなんとなく受け入れられるわけです。信時潔は海ゆかばをつくり、あと紀元二千六百年のときには「海道東征」といふ北原白秋作詞による大変な大曲をつくつてゐるわけですね。かういふものをつくつたがゆゑにですね、戦後は逆にマイナスに働くといふことになつたわけです。「海ゆかば」は戦時中は第二の国歌として深々と歌はれたわけですけれども、戦後は一転して当初はGHQの指示もありまして封印されてゐたわけですが、そのあと日本人そのものも、このあまりにも重々しい曲を敬遠するといふ気風が出てきて歌はれなくなつてきたといふ意味で、「海ゆかば」といふ曲は戦前と戦後といふ断絶を極めて象徴的に表す最大の曲であらうと思ひます。戦前におけるこの曲の日本人における位置と、戦後のこの黙殺といふのは、昭和といふものがいかに昭和二十年八月十五日を境に全く断絶されたかといふことの象徴的な例であるといふふうに思ひます。

 ちよつと戻りますが、この「海ゆかば」といふ曲は『万葉集』十八巻に大伴家持の長歌がありまして、そのなかの一節に曲をつけたものです。そもそもその『万葉集』といふものを考へてみると、なかなか複雑なものがあるわけです。『万葉集』は、日本の伝統である、或いは日本の精神のふるさとであるとか、表現的にはいろいろ言はれますけれども、もう少し考へてみますと「海ゆかば」といふ曲が持つてゐる悲劇性といふものが、実は万葉集の「大伴家持」のこの詩の一節からやつぱりあるといふことです。そもそもこの大伴家持といふ人ですが、大伴氏といふものは、佐伯氏とも一緒でしたが、大伴氏といふのは元々元々は武門の家でありまして、名門中の名門で、いはば近衛のやうな武門の一族で天皇のそばに仕へてゐる名門中の名門であつたわけです。これが所謂藤原氏といふ新興勢力が出てきて、これは新興勢力であるがゆゑに非常に権謀術数をよしとするわけです。大伴は愚直な素朴なる武門で行くわけですけれども、すぐ●●●●(16分25)を食らはすやうな権謀術数を藤原はするといふことで、大体あの時代、万葉の時代といふのは、大伴といふ古い名門が没落する、いろんな事件が起きて没落していく、それで藤原氏といふものが殆んど専横していくといふ、さういふ流れのなかでのものなわけです。大伴家持もすでに大伴の長でありましたけれども、そのころ越中の所謂県知事的なものに飛ばされてゐたわけです。そのときに聖武天皇が奈良の大仏をつくらうとしてをりまして、塗る金がないといふことを非常に憂ひてをられた。そのときに東北地方で黄金が出たといふことで、それを寿ぐ詔書を天皇が出された。そのなかに「海ゆかば」大伴氏とかはなかなか忠義な武門であるが、彼らはいつも決意を語る言葉である言立として「海ゆかば水漬く屍山ゆかば草生す屍 大君のへにこそ死なめ のどには死なじ」といふことを言つてをつたと褒め称へたわけですね。それが詔書ですから知事のところに回つてきて、大伴家持はそれを見て、詩人であり没落しつつある氏ですから、非常にこの天皇は昔ながらの武門の忠義を誉め称へてくれたといふことを、いたく感激いたしまして、その詔書を寿ぐ長歌と短歌を書いた。その長歌のなかに、また「海ゆかば水漬く屍 山ゆかば草生す屍 大君のへにこそ死なめかへりみはせじ」と、最後の一行を大伴家持は変へて書いたわけです。「のどには死なじ」といふのは、安穏に死なない、畳の上で死なないといふやうな感じです。かへりみはせじといふのは、田母神前幕僚長でありますが「かへりみず」と「かへりみはせじ」と自分の意思、●●(自身?)をかへりみないといふことです。非常にある意味では詩としては緊張感が高まつたものに変はつてゐるわけです。

 明治二十年代に「海ゆかば」といふ曲はつくられました。それは海軍のはうでも使はれてますが、東儀さんといふ雅楽の人がつくつたものであります。これは軍艦マーチのトリオの部分でいまでも使はれてゐる非常に雅楽調のものです。それがありましたが、昭和十二年の東京音楽学校の当時教師でありました信時潔が「かへりみはせじ」といふ詩のはうに曲をつけたのがいま話してゐる「海ゆかば」です。

 いまの日本の歴史といふのはある意味では表面的には悪い面は一杯ありまして、奈良の時代においてもあの時は結局唐の律令制度といふものを、日本の実情、伝統といふやうなことにあまり関係なくどんどん取り入れていくわけです。一種の文明開化です。明治だけではなく、あの時代も大変な文明開化です。それに乗つかつたのが藤原とか新興勢力です。大伴とかさういふ日本の伝統的なものを守つてゐる人達はどんどん負けていくわけです。唐の律令制度といふのはいまでいへばアメリカニズムみたいなものです。明治でいへば西洋文明でもいいです。戦後に絞つて言へばアメリカニズムです。アメリカニズムといふもの、構造改革でも良いですが、さういふものをアメリカで勉強してきた、唐に留学した人間が取り入れたやうに、アメリカに留学したインテリがどんどんどんどん取り入れる。さういふ人間がどんどんどんどん藤原のやうに動かしていくわけです。日本の伝統的なことをじつくり守らうといふ人間はどうしてもさういふ戦ひに負けていくわけです。大伴も負けていつたわけです。それを大伴家持は『万葉集』といふ、和歌といふものを編纂することによつて日本の伝統、精神を守らうとした。NHKで「日めくり万葉集」なんて番組をやつてゐますけれど、ただ良い歌とか、相聞歌とか、愛の歌とか、さういふ風景の綺麗なものを歌つてゐるといふのは『万葉集』ではないわけでありますが、大体戦後は『万葉集』もさういふふうに捉へられてゐるわけです。元々万葉集といふのは大伴家持のやうな長歌とか、さういふものが中心なんですけれども、日本の近代以降、アララギの悪口はあまり言つてはいけませんが、所謂短歌中心な近代的な短歌感で万葉集も読むやうになつていつた。いま言つた「海ゆかば」の入つてゐるやうな長歌といふやうなものは、戦前の研究家の本にはちやんとありますけれども、戦後の万葉集の研究家の本を見るといま言つた大伴家持の長歌なんかあまり取り上げられてゐません。海ゆかばが入つてゐますから。それは万葉集の誤解なんであつて、万葉集といふやうな古典も、実は戦後的な価値観によつて歪められてゐるわけです。ただ戦後だけの問題ではなくてですね、万葉集といふやうなことを考へる上においても、さういふことは行はれてゐるわけです。大伴家持の「海ゆかば」といふ詩は元々さういふものではなくて、大伴氏の言立として書いた。「のどには死なじ」と「かへりみはせじ」と両方あるのですけれど、大伴の軍団は皆集まつて、さういふのを両方、いろんなものを歌つてゐたのだらうと、掛け声をかけてゐたんです。そのなかにのどには死なじと言つたり、かへりみはせじといふやうなことを言つてゐただらうと。それで大伴家持は「かへりみはせじ」をとつたのだらうといふふうに言はれてゐます。さういふふうにそもそも「大君のへにこそ死なめかへりみはせじ」といふものが、没落していく大伴氏のある意味では非常に悲痛な決意なわけです。律令制度とか、いまでいへばアメリカニズムとかさういふその賢しらなことがどんどんどんどん入つてくる。またそれに迎合してくる日本人が藤原のやうに、戦後の日本人のやうにゐるわけです。さういふなかで、日本のことを守る人間といふのはどうしてもなかなか辛い悲痛な立場に置かれるのだけれども、さういふ人間が万葉集を編み、今日においても恐らくさういふ活動を日本人の人たちがやつてゐる。これを敗北と言つたら敗北でもあるんですけれど、これを偉大なる敗北と保田與重郎なんかも言つたわけです。大体その汚い奴が勝つわけです。精神の綺麗な人は敗れるわけです。それを敗れたからといつてどうといふことはない。それは偉大なる敗北であつて、いやしい勝利よりも、偉大なる敗北のはうが凄いんだと思ふことが大事なわけでありまして、ある意味では大東亜戦争といふものは偉大なる敗北であつて、負けたことを何にも恥ぢることはないのであつて、勝つたはうがいやしいと。汚いことをずつとやつたから勝つたのだといふふうに思へば良いわけであつて、負けたことを恥ぢることは全然ないわけです。元々万葉の時代でも、さういふ問題があつて、この「かへりみはせじ」といふものはさういふ背景であつたものです。それを沁み付けたといふところが、大変この面白いところであります。

 信時潔といふ人は明治二十年に大阪に生まれ、お父さんは吉岡弘毅といふ幕末に志士として活躍した侍であります。明治の初期に新渡戸稲造、内村鑑三をはじめとして、数多くの所謂侍クリスチャンといふ人たちが生まれました。侍がクリスチャンになるといふ精神的激動期であつたわけです。その最も先輩格であつたのが吉岡弘毅といふ人で、立派な方です。この方の三男で吉岡潔と言つたんですけれども、十歳のときに信時家の養子に出されまして、信時潔といふふうになりました。東京音楽学校、所謂いまの芸大に行きまして、バッハを中心とする西洋音楽の王道を学びました。

 山田耕筰といふのは同じころ東京音楽音楽学校にをりますけれど非常に対比的です。山田耕筰といふのはそのころすでにプロフォーフェクトだとか、スクリアービンだとかの最先端の音楽家のものを取り入れて作曲してをります。「このみち」とか「からたちの花」みたいな異様な複雑な●●(和音?)をするものつくるやうになります。信時潔は西洋のものはまづバッハからちやんと学ぶべきであるといふことで、バッハ、ベートーベン、ブラームスなんかをずつと学んだ人です。彼なんかもシューンベルクなんかを知つてをりますけれども、彼はそれを意図的に禁欲したわけです。さういふ意味で異様に先端的なものに飛びついていくタイプと、オーソドックスなものに着実にやつてくるタイプとゐますけれども、信時潔は後者のはうです。山田耕筰は非常に新しがりで、さういふ意味では大変な活動をした偉大な人ではありますが、さういふタイプです。信時といふのは愚直なまでにバッハ、ベートーベン、特にバッハに執着した人です。ですから海ゆかばといふのは、敢て誤解を恐れずに言へば、これは大伴家持といふ万葉集の詩とバッハといふ西洋音楽の古典が合体したものといふふうにもいへるわけで、そこに明治以降の日本の偉大さがあるだらうと思ひます。明治以降の偉大さといふのは、決して日本といふものに変に拘るわけではない。日本といふものは台木としてある。接ぎ木する台木としてある。そこに西洋文明、福沢諭吉であれば西洋文明、文明感といふものが接ぎ木される。フェノロサであれば、西洋美術といふものの美意識といふものが接ぎ木される。内村鑑三であればキリスト教が接ぎ木される。夏目漱石であれば英文学といふものが、彼の漢文学の教養に接ぎ木される。森鴎外であればドイツ文学といふものが接ぎ木されるといふ、さういふ日本の漢詩漢文、或いはコー文学?、或いは伝統、武士道、日本古来の感覚、さういふ倫理道徳、さういふものに西洋的なもの、特に十九世紀から西洋近代といふものはある意味では人類史的には大変偉大な時代であることは間違ひないので、その西洋近代といふ偉大なる時代の所産を、当時のエリートの青年たちは学んで、それを接ぎ木した。そのことによつて日本の近代といふものは繁栄したわけです。日本的なものだけに拘るわけではなかつた。しかしいまみたいに台木のない日本人がどうなるかといふと、単なる受け売りになるわけです。西洋的なものをただもつてきて構造改革だと言つてゐるわけです。さういふ受け売り的な、生け花を持つてくるしかない。根つこはありませんのですぐ枯れる。今の日本はいつもかういふふうに変化してゐるわけです。五年経てば変はる。それは所詮根つこがない切り花を持つてきてゐるからで、台木がないからです。けれども明治時代の偉人達においてはしつかりした台木をもつてゐてそこに接ぎ木されたといふことです。これは明治の精神の典型的な姿ですけれども、信時潔はその一人です。西洋の音楽、バッハは偉大です。大変なものです。これをすつかりとりいれたわけです。そのうへで日本の詩、彼はいろんな詩に名曲をつくつてをりますが、例へば「海ゆかば」であれば万葉集につけた。かういふ曲を昭和十二年に、明治維新から七十年ほど経つたときに、一日本人である信時潔がつくれたといふことは、日本の文明とはすごいんだなといふことだと思ひます。西洋と出会つてから、半世紀以上経つたくらゐでかういふ曲を作れるといふ、大変な能力といふものを示される。これは音楽に限らず文学も絵画も、いろんな天才的所産を日本人は生んでゐますけれども、音楽においては典型的なものだらうといふふうに思ひます。

 「海ゆかばのすべて」のなかに、「海ゆかば」が入つてをります。素晴らしいものが一杯あるのですが時間の関係もありますので、東京音楽学校が歌つた最も大編成によるもので、昭和十六年東京音楽学校の奏学堂、今も移設されて残つてをります奏学堂において録音されたものがありますので、これを聞いていただきたいと思ひます。もしかするとこのなかに畑中良輔さんもメンバーに入つて歌つてゐるかもしれない、さういふ歴史的な録音であります。ではお願ひいたします。

海ゆかば水漬くかばね山ゆかば草生すかばね 大君の辺にこそ死なめかへりみはせじ

海ゆかば水漬くかばね山ゆかば草生すかばね 大君の辺にこそ死なめかへりみはせじ

海ゆかば水漬くかばね山ゆかば草生すかばね 大君の辺にこそ死なめかへりみはせじ

 これは昭和十六年のものですけれども、かういふのを聞きますとたいへんな文化的エネルギーを感じます。大東亜戦争といふのは単なる軍事的な戦争ではなくて、いかに文化の戦であつたか。かういふ曲が必要だつたわけですね。この曲を聴くと大東亜戦争とはなんだつたのかといふことが、ある本質においてわかるといふやうな気がします。これは西洋文明といふものと、日本文明といふものがどう戦ふか、それをやつてゐるわけです。万葉集とバッハをぶつけてゐるわけです。この信時潔の戦ひといふものは、非常に象徴的なもので、ただ軍事的な武器同士の戦ひといふやうなものではなかつた、対テロ戦争といふやうなものではないといふ感じが、深々としてくるわけです。私が書いたこの本『信時潔』のカバーは信時潔のすごい顔写真で評判だつたわけですけれども、この顔を見てわかるやうに信時さんといふのは、実に愚直なまでの人でありまして、音楽全てが変な工夫はしてないけれど、聞けば聞くほど味が出るといふ深い音楽をつくつた方で人柄そのものです。信時さんは皆さん御存知のやうに校歌といふものを一杯つくつてをりまして、特に有名なのでは開成学校とか、慶応義塾の塾歌とかなんていふのは特に有名です。学習院の院歌もつくつてをります。このまへ産経の志塾といふので話しましたら、なんと中学生が聞きにきてをりまして、信時潔のことを話しましたら、私の学校の校歌は信時先生ですなんて言はれまして、きみどこかねと言つたら、学習院ですなんて言つて、さすがだなと思つたんですが、悔しいから作詞者はと聞いたら、安倍能成先生ですと言はれて、そこまで知つてゐるからこれはやつぱり本物であるなと思ひまして、産経志塾に来る子は凄いなと、親が凄いのかどつちかわかりませんが。総理大臣の小泉さんと安倍さんと麻生さんは、慶応と成蹊と学習院、信時潔の校歌です。成蹊なんかは特に名曲でみんな歌つてゐる。慶応も名曲で、去年の夏に甲子園で慶応が三回勝ちまして、私は塾歌を聞きたいために慶応の試合だけ見ましたけれども、特に三回戦の松商学園との試合をやつたときに、なんと松商学園も信時潔の作曲で、両サイドから信時の校歌をやつたんです。あれは凄かつた。今年の春も楽しみにしてゐたら一回戦で慶応が負けてしまつてがつかりでした。

 信時はさういふふうに大変校歌をつくつてゐて、全国で九百曲ぐらゐつくつてゐると言はれてゐますので、もしかすると皆様の御出身地の小中高の校歌もつくつてゐる可能性も非常に強いと思ひます。さういふ意味で信時さんは決して親しみのもてない人ではなくて、CD六枚組の「信時潔作品集成」には唱歌も一杯入つてをりまして、「一番星みつけた」とか、「電車ごつこ」とか、さういふ文部省唱歌もつくつてゐるのですが、彼は絶対自分で名前を出してゐないんです。戦後さういふことを調べる人が一杯ゐましたから名前が出てゐますけれども、彼は絶対出さなかつた。文部省唱歌は文部省唱歌であつて、自分がつくつたものではない。つくつたんだけれども文部省唱歌であると。この一つを見ても信時潔といふ人の人柄がよくわかるわけです。

 いま嬉しいことに国分寺駅では信時潔の「電車ごつこ」を発車メロディにしようといつてゐて、西国分寺駅では与謝野明子作詞による「子供の踊り」を発車のメロディにしようと、地元の商店会などがやつてゐるといふことで、さういふ裾野にまで信時さんの復活をしようといふ動きがあるのは大変嬉しいかぎりです。

 『「海ゆかば」の昭和』といふ論集を編集することになりましたけれどもこのきつかけは、私の本が出るよりも前にある雑誌に「海ゆかば」といふタイトルでフランス文学者の冨永明夫さんといふかたがエッセイを書かれてゐて、それを紹介されましてある方がコピーを送つてこられまして、大変感銘しました。それは採録してありますけれども、書きだしは「信時潔の海ゆかばは名曲である」といふふうに始まるんです。冨永明夫さんといふのは私の学生の頃にはフランス文学者として大変有名で、スタンダールの「赤と黒」を中央公論社の「世界の文学」において四十代で訳された大変な方です。スタンダールやモーツアルトが大変お好きで、その方が信時潔の海ゆかばは名曲であると言はれてゐるんです。冨永さんもそのやうに評価されてゐるのかと思つた。モーツアルトなどを一杯聞きなれて、耳が肥えてゐる方が「海ゆかば」は音楽として名曲であつたといふことを言はれてゐる。そのエッセイはそのあとのはうが主でありまして、昭和二十数年の夕方に彼が東大のキャンパスを歩いてゐたとき、ある校舎の窓を見上げたら水兵?が窓際に出てきて彼が見てゐることに気付かなかつたのでせう、「海ゆかば」を夕空に向かつて歌つたといふのです。歌ひ終はつたあとに、ぱつと翻して去つて行つた。冨永さんは、彼は何か大変重いものをそこで吐き出して行つたのだらう、と。戦後といふものにはさういふ悲劇があつたんだらうといふことなんです。冨永さんがさういふことを書かれてゐるといふことは、「海ゆかば」について戦後、殆んど語られなくなつてゐるけれど恐らく多くの有名無名の東京、地方、軍人だつた、軍人でなかつたとかに拘はらず、多くの人が「海ゆかば」について深々とした経験を持つてゐるに違ひないと直感したわけです。いまさういふものを書き遺しておくことは日本の歴史にとつて大変重要なことだらうと思つて五十数名の若い方、或いはお年寄りの方を含めて、戦後生まれの方を含めて書いてもらつたわけです。中曽根元総理にも海軍中尉として思ひ出があるといふことで、対談に出ていただいたわけですけれども、さういふことが語られなければ消えていつてしまつたんですね。おそらく「海ゆかば」については何十年先になつたら思ひ出を持つてゐる人はどんどん少なくなりますので、いまここで遺さなければいけないだらうといふことで、かういふ論集を出したわけです。幸ひにして大変力のこもつたエッセイを多くの方に書いていただいて有難かつたといふふうに思つてをります。

 その表紙につかつた絵は横山大観の絵なんです。これは同じく信時潔の「海道東征」と同じ紀元二千六百年の昭和十五年に横山大観が「海山十題」といふことで、海について十枚、富士山について十枚描いて、日本橋の高島屋と三越で即売会をしたものです。当時七十数歳。かなり短い期間に書いたと言はれてゐます。そこで展示即売会をして予約ですぐ完売したと言はれてをります。それで完売したものをどうしたかといふと、横山大観が何故非常に短い期間に二十枚の絵を描いたか。そのお金で、海軍機、海軍の飛行機を奉納したわけです。横山大観が海軍機と写つてゐる写真が残つてゐます。それで横山大観は絵を描いたんです。

 この「海山十題」といふのも、数年前に東京芸術大学の図書館で二十枚、初めて展示された。数枚行方不明になつてゐたのが全部見つかつて展示された。この絵は戦後において長く展示されなかつたんです。さういふ背景があつて「海ゆかば」と同じで封印されてゐた。やつと数年前にこの横山大観の絵が全て展示された。徐々にではありますけれども、さういふ封印が解かれてゐるといふことだと思ふんです。「海道東征」も数年前にはじめてライブで公演されまして、これも北原白秋の作詞による大変なものです。北原白秋なんかも戦後は気の毒なことに童謡とか、さういふものの感性鋭い作詞家だといふふうに片づけられてますけれど、なんといつても北原白秋が死ぬ直前に当時白内障でありましたけれど、全精力を籠めてつくつたのがこの「海道東征」といふ長編の詩です。これに作曲したのが信時潔。これはカンタータとして最高傑作だらうと思ひます。これも戦後封印されてきたわけです。なんといつても紀元二千六百年の奉祝行事の曲です。このときは山田耕筰は交響詩「神風」といふのをつくつてをります。幸か不幸かこれはつまらない曲なんです。信時潔の「海道東征」といふのは名作だつたんです。全国で公演されたんです。これが災ひするわけです。戦後といふのは非常につまらない評価をする時代だといふことです。山田耕筰は名曲ではないから良かつた。信時潔は名曲を書いたわけです。これを逆にするといふ、実に戦後といふのはさういふつまらない人物評価をして平気だつたといふことだと思ひます。

 一つ「海ゆかば」で言ひますと、確かにGHQによつて封印されたといふことがあるけれども、やはり日本人そのものにも問題があると思ひます。例へば小津安二郎の昭和十七年の「父ありき」といふ映画の最後に「海ゆかば」が入つてゐた。いま我々が見られる「父ありき」はお父さん役が笠智衆で息子は佐野周二が演じてをります。その笠智衆の演ずるお父さんが亡くなつて、その遺骨を汽車で運んでいくシーンがありますが、そこで不自然に音がブーッと消えてゐるわけです。実はここに「海ゆかば」が入つてゐた。小津安二郎は中国に戦争に行つた人で、親友の映画監督を失つたこともありますし、独特な思ひがあつて曲を使つた。戦後それが封印されてゐる。それをずつと戦後日本人は並木座なんかで名作だと言つて見てゐたわけです。ただなんのことはない、ロシアからフィルムが戻つてくるんです。ソ連はベルリンに侵攻したときにはフルトヴェングラーなんかの名曲をかつぱらつていきますし、満洲に侵攻したときにも日本のものをいろいろとかつぱらつていつた。それがソ連が崩壊してロシアになつたときに日本に戻つてきたわけです。そのフィルムを見たところ「海ゆかば」が入つてゐたといふことがはじめてわかつたんです。さういふことで戦後GHQのあらゆる言論に及ぶ●●●●がやつたことも含めて、戦艦大和の最期(「戦艦大和ノ最期」?)に対する検閲も含めて、あらゆることにおいて検閲をしたわけです。それで音楽においても「海ゆかば」も封印されたし、作曲家もなんとなくやさしい曲をつくつていくといふふうになつたわけです。けれども、先ほど小田村会長からもお話があつたやうに、昭和二十七年の四月二十八日をもつて独立を回復したわけです。本来ならばそのときにうたひなほせばよかつたわけです。独立を回復したわけですから全然問題ないわけです。ところが憲法とか含めて、何故か回復したにもかかはらずそのままずーつといつたといふところに、問題があるだらうと思ひます。

 戦後六十年の年に天皇皇后両陛下がサイパン島にはじめて慰霊に行かれたときに、敬老センター、島民の養老施設ですか、さういふ敬老センターに慰問に行かれた。そのときに宮内庁関係者も全然予想外で小役人たちが焦つたやうですけれど、島民のお年寄りの方々が「海ゆかば」をうたつてお迎へしたわけです。宮内庁の人たちは焦つて、困つたなといふ顔をした。歌つたことですね、これは実に自然なことであつて、サイパン島の島民の方々が、強烈な思ひ出として覚えてゐる。慰霊にこられたといふときにその歌をうたふ。これは実に自然なことである。ところが本来歌つてゐなければいけない日本人がうたつてゐない、うたつてこなかつた。信時潔のCDなんて出てませんしね、信時潔の評伝すらなかつたんです。みんな、山田耕筰をえらいえらいと言つてゐたんです。ヒューマニズムはえらいとか言つてゐたんです。「この道」とか「赤とんぼ」とかを歌つてゐたわけです。そこに問題があるわけです。逆にサイパン島の島民の方のはうが自然な歴史感覚を持つてゐるのではないか。敢へて悪口を言ひますけれど、日本列島の島民といふのは経済復興といふことにあまりにも重みをかけてきて、何か歴史をどんどん置いていつたのではないか。さういふ面ではGHQだけが悪いのではなくて、それを昭和二十七年の四月二十八日をもつて蹴飛ばさなかつた日本人にも問題があるのではないか、その象徴の一つが「海ゆかば」であらうといふふうに思ふんですね。

 この曲は元々軍歌でもなんでもありませんが、カラオケなんかに行きますと、軍歌なんていふページに入つてゐます。大変嘆かはしいことであつて、どうにもならないんです日本人のレベルは。カラオケの本なんかに軍歌かなんかに入つてゐるんです。音楽のプロデューサーとかもさういふレベルなんです。これはもともと昭和十二年に日本放送協会、いまのNHKが、国民の精神を総動員するための、大臣がいろいろ演説するためにオープニングテーマとして何がよからうかと、「君が代」はちよつと重々しい、それで儀式的な曲として東京音楽学校の信時に依頼があつた。それがかかつたのが最初です。軍歌でもなんでもないわけでありまして、元々は非常に儀典的な、荘厳な儀式系の曲です。その曲として昭和十二年にはじまりましたけれども、戦局の悪化とともに段々鎮魂曲、レクイエム的なものとしてかかるやうになつてきた。音楽といふのは面白いもので、元々の音楽とイメージが変はつてくるといひますか、その歴史をどんどん吸ひこんで行つて、戦時中の末期においては非常に悲しい、悲痛な沈痛な曲としてかかるやうになつてきた。

 封印といふことで申しますと、亡くなつた久世光彦さんにも信時潔の本を読んでくださつたと御連絡をいただき、仰るにはTBSテレビでドラマをつくるときに、久世さんは「海ゆかば」が大変お好きでしたから、岸恵子主演の戦争のドラマをつくつてゐたときに、「海ゆかば水漬く屍 山ゆかば草生す屍」までは歌つきで入つたけれども「大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ」のところは曲だけにするといふやうな自主規制があつたといふことなんです。これがやはり日本のマスコミでありテレビであり映画なんです。自主規制してゐるのは日本人なわけです。そこに大きな問題があるんでせう。

 幸ひにしてやうやく歴史を正しく見直すといふ動きが非常に深く大きくなつてきて、信時潔も非常に復権しましたし、「海ゆかば」も復権して、「海道東征」も再演されてCDは非常に売れてゐます。さういふ意味で歴史といふものは復権されるし、歴史といふのは短く見るといろんな不幸もありますが、私はある意味では歴史に信頼してゐるところもありまして、長い目でみれば本物といふものは残つていく、評価されていくと、信時潔なんていふのは六十年間●められたけれども、やはり本物は、絶対歴史において本物であり、真向から歴史とぶつかつた人物といふのは絶対に浮かびあがつてくる。さういふ意味で歴史といふのには叡智といふものがあつて、それほど悲観することはない。日本人の心がけであらうといふふうに思ひます。日本人そのものがあまりにも短く歴史といふものを考へすぎるところがあつて、それに苛立つところがありすぎるのではないかと、どしつと構へて長い目で見れば、本物は復活するのだといふことが言へるのではないかと思ひます。

 ユダヤ人には悪いところが一杯ありますが、歴史の長さといふ意味では学ばなければいけないところもあると思ひます。山本七平さんの『日本人とユダヤ人』のなかにありますやうに、ユダヤのイスラエルが建国されるといふ話が風の噂で伝はつてきた。そのときに、イエメンの王国にずつと二千年以上歴史が続く無視されてゐたユダヤ人の集落があつた。その人たちが風の噂でイスラエルといふ国ができると聞いたら勝手にイスラエルに向かつて歩きだした。イスラエルが焦つて輸送機を手配してやつた。彼らは飛行機なんか見たことないのに、平気な顔してずらずらずらつと乗つていつたんです。不思議だと思つてゐると、「聖書にあるでせう、風の翼に乗つて故郷に帰る」と言つた。かういふ歴史に対する信頼といひますか、ある意味ではこれは大事なことで、精神の記憶といふもので記憶にすれば良いんだと、旧約聖書を暗記してゐる人たちにとつてはユダヤ人にだつて国柄があるんです。

 北方領土問題について、「ほたるの光」といふのは四番まであといふやうなことを産経新聞に書きましたけれども、要するにみんなずつと四番まで歌つてゐればいいわけです。プーチンさんが来たときに少年合唱団を連れて行つて「ほたるの光」といふ曲がありますと、そして日本人はこの曲を全員が知つてゐて、老若男女「ほたるの光」を歌ひつづけてゐます。四番に「千島のおくも」と出てくるわけです。全員この曲をずつと歌つてます。これを歌へば良いいんです。心においてずつとさういふものを持つてゐることが大事なんだといふことを思ひ出す必要があるんではないでせうか。ユダヤ人は旧約聖書を全員が暗記してゐるから国があるんです。全然国が無くなつてないんです。

 さういふ形とか金とか経済とか、景気が悪くなつたからどうとか、日本人の本当の誇りといふものを取り返す上で、景気が悪くなつたからどうなんだといふことを、すぐ言つてしまふといふのはですね、やはり問題もあるのではないかと思ひます。ユダヤ人は苦難のなかで二千年頑張つて風の翼に乗つて帰ると、この歴史の叡智に対する信頼といふものを、日本の歴史といふものに対して日本人も持つべきではないか。

 昭和について限つていへば「海ゆかば」といふ曲を、日本人全員が歌へる、覚えてゐる、この歌を聴くと深い感銘を覚えるといふことがあるかぎり、昭和の悲劇といふのは日本人の歴史のなかから絶対に失はれないし、絶対に続いて行くと思ひます。

 逆にこの曲を殆んどの人が知らない、聞いたこともない、たまに聞かされても暗い音楽だなぐらゐにしか思はないといふ日本人が管制?をもつやうになつてしまつたときに、恐らく日本といふものは滅びるであらうし、日本といふ国の歴史はそこで終はる。そのときに日本列島に住んでゐるのは日本といふ国の住民票を持つた住民が住んでゐるだけで国民はゐなくなる。住民票を持つてゐて給付金は送つてくると、一万二千円ぱしつとくると。国民といふものはこの島からゐなくなつてゐる。さういふ意味でこの「海ゆかば」といふ曲は非常に重要なんです。私がかうして一所懸命言つてゐるのはこの曲を忘れてゐるか覚えてゐるかといふのは日本国民にとつてキーなんです。要なんです。この曲を覚えてゐるかどうかがメルクマーレなんです。そのくらゐに私は思つてゐるわけです。何故ならばこの曲に昭和の日本人の悲劇がつまつてゐるからです。多くの戦死者の思ひがつまつてゐるからです。この曲すら忘れてしまふやうであれば、何か大きな精神を失つてゐるものではないかといふふうに思ひます。この「海ゆかば」といふ曲がみなさんを中心に、多くの日本人の人に歌ひ継がれていき、昭和の歴史といふものがその悲劇を含めて深々と思ひだされていくことを祈念致しまして、私の講演とさせていただきます。

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